仕事が忙しい松さんとは、当日朝4:00に合流し、前泊していた高さんの愛車で酷暑の夏、涼しさを求めて4:30何処に出発!。
行く宛ては無い。でも北へ向かう事は3人周知の上、まずは関越道に乗る。
サラリーマンの夏休み初日、故に結構な交通量だ。取りあえず国境を越え、土樽で小休憩。
冬とは違い車の多い事。日頃の行いが良いせいか?雲ひとつ無い晴天(酷暑か?)
津南に入り、どこに行こうかと迷うが、昔キャンプした大厳寺(だいごんじ)を目指す。
途中のR405は国道ながら極めて細く対向車とのすれ違いも難しい道。
なんで国道登録されたのか?。地元のR407とはえらい違い!
ここ「雁が峰峠」一体はブナと杉の混在林ようで、それぞれ一生懸命生きている息吹が感じられる。「猿の腰掛け」発見!
松之山へ少し下った所に出現した「棚田」(松さん撮影)
日本の原風景。癒やされます!。手入れがされており地元愛を感じる。
後に気付いたが、29年前に俺がバイクで林道無宿した時、ここを通り、全く同じ場所で同じ風景を撮影していた(笑)
大厳寺高原からR117へ下る途中に通るブナ林。
ちょうど、太陽光が木々の間に差し込み「御光」のように輝いていた。合掌!
津南から県道507を秋山郷に向かう山道での出来事。
途中駐車し、写真撮影している最中に、横を飛ばして走る「なにわ」ナンバーのワンボックス。
時間差で出発したが、前を走るワンボックスの飛ばす事飛ばす事・・。
ブラインドの先にあるコーナーに差し掛かった際、そのワンボックスが道幅一杯に停車していた。
「なんだ?何かあった?」視線を右に逸らすと、”お尻丸出しの中年おやじ”が・・・絶句!
そう! なにわの親父は道端の用水路で用をたそうとしていた(水洗便所かよ!)
我々の視線を感じたのか、そそくさとズボンを上げ、バツの悪そうな面持ちで視線を逸らした。
状況は理解出来る! 我々にも同じ経験はある。
しかし・・・用水路を利用するとは? 驚きです!
そんな”おもろい事”状況を3人で爆笑しながら、13年振りに「カヤの平高原」へ。
一番端っこに陣取り、天泊の準備。
途中で、太公望ふたりがGETした岩魚。その数8尾!
釣れてから津南のコメリで急遽調達したコンロと備長炭で「炭焼き」に・・・
頭と尾びれに「飾り塩(粗塩)」を振りかけ、身には「あじ塩」
ほどよく焼けたところで頬張る。身が締まって沢山あり本当に旨い!
身をすっかりゴチになり、骨や頭は再びコンロ上で焼く。
調達した日本酒(熱燗にして)で “骨酒” にし無駄なく頂きまぁ~す!
高さんは運転疲れのせいか早く就寝し、俺と松さんで深夜遅くまで飲み明かした。
豚肉ステーキを頂いちゃいましたよ。
そして・・・朝を迎える。気温は18℃。
ガスっていて景色が確認出来ないが、えらく気持ちいい。下界と10℃前後違う?
カップ麺の朝食を済ませ7:00には出発。渋峠を経由し、毛無峠に向かう。
ここは分水嶺でもあり小串硫黄鉱山跡でも有名。お疲れの松さんは峠頂上に残り、俺と高さんで鉱山跡までハイキングをする事とした。
片道1時間ちょっとの行程である。
昭和4年から46年まで稼働していた小串硫黄鉱山。
昭和12年には大規模な土砂崩れで245名の住民が亡くなったが、最盛期にはこの盆地地帯に2,100名もの人々が生活をされていた。幼稚園、小学校、中学校、診療所、スーパーマーケット等生活が十分出来るほどの街がここにあった。生活水準は麓の須坂に住むサラリーマンの2~3倍の給与を貰っていただけにかなり高かったと言われている。
テレビは長野県でもかなり早い普及だったらしい。
小串小中学校跡にあった「回旋塔」。一番下の階層にある。
当時のいすゞエルフ。まだこの顔は覚えている。
これが「硫黄」か?。風雪に晒された土壌に散乱している。
2時間駐在、復路はジロー坂を1時間半かけ毛無峠へ。
栄家繁栄を垣間見る事が出来る小串硫黄鉱山。まもなく冬を迎える。
陸の孤島と言われた場所。標高1,650mだから。
メインイベントが終わった後は須坂ICから乗り、下仁田で、例のソースかつ丼+昔ながらのラーメンをたらふく食い帰還した。